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【シリーズ特別寄稿vol.5】矯正医官への歩み ~法務省の医師という選択~

矯正医官への歩み

~法務省の医師という選択~

ブラックジャックに憧れて外科医となり 35 年が経ちました。一般社会の病院 勤務の外科医から法務省の矯正医官となって 12 年が経過しています。私が法務 省の医師という選択をした歩みと現在の刑務所の矯正医療の現状を伝えたいと 思います。

昭和 59 年に医師になった当時はまだ現在のような臓器別の医局制度ではなく 医局単位でほぼすべての臓器の手術を実施していましたが、その中でも、甲状 腺、乳腺、消化管、肺、肝胆膵、血管外科、腎臓移植、血液透析と幅広い領域 の手術と臨床と研究を実施していた大学医学部の外科に 35 年前に入局しました。 約1年間の大学病院での研修にて、外科領域の手術や術前後の周術期管理の臨 床と基礎研究を学びながら多忙な研修医生活を過ごして、厳しくもあり優しく もあった諸先輩の指導のもとで外科医として医師として、多岐にわたる一般外 科や専門外科や総合診療を経験して医療知識や外科手術の手技だけでなく、医 師としての使命や患者や家族への対応と姿勢を学びました。その後、県内の地 方の関連病院に派遣されて地域医療を担う病院で勤務しながら、多くの領域の 外科と救急医療や地域医療の研修を行ってきました。4年後、医学博士号を取 得するため大学に戻り、まだ当時の日本では小児の生体肝移植が始まったばか りで日本では実施されていない成人の生体肝移植の手術を目標に、肝移植の実 験と研究のためラットやブタ等による動物実験を繰り返しながら、肝移植の手 技や臓器保存や拒絶反応の抑制方法につて研究をしていました。私は、移植し た肝臓の拒絶反応を抑制するための研究と同時に進行肝癌に対する肝移植をテ ーマにして研究成果を国内の学会および海外の国際学会での発表や論文作成を していました。約 4 年間の研究生活にて大学での医学博士号の取得後は、再び、 県内の関連病院に外科医として派遣され、外科・救急および緩和ケア医として 地域医療のために勤務していました。

東京の聖路加国際病院の内科医であり病院長となった日野原重明先生(平成 29 年7月18日没 105歳)が、1993年に日本で初めて開設した神奈川県の独立型の終 末期医療施設ピースハウス(ホスピス)での研修する機会を得て、当時の終末 期医療の最先端を勉強させて頂きながら生命に関わることなら何でもこなせる 外科医が生から死まで関与できる End of Life Care を総合病院で実現するため に外科的緩和ケア病棟 (Surgical Palliative care unit)の設立を目指してい ました。しかし、時代が少々早過ぎたのか理解を得られず施設での創設運営計

画としては挫折して一般外科医・総合診療医として働きながら悶々とした日々 を過ごしていました。研究では肝移植による肝蔵の臓器再生によって人の生命 を救うことに長く関わってきたけれど、すでに日本で生体部分肝移植が成功し て着実に症例が増える状況になっていましたので、今から臨床の肝移植に関わ ることにはもう体力・気力的に限界であり、今の私が出来ることは、外科医と して長年、学び培ってきた医療分野で医師である誰かがやらねばならない国の 仕事で社会貢献が直接に実感できる仕事がないかと思案していたところ、法務 省の矯正施設に勤務する医師が全国的に不足しており被収容者の診療に困って いる実情を知り、人の健康は、身体だけでなく精神の回復も同時に必要であり、 改善更生して社会人として再生復帰するためには、緩和ケアの経験から、孤立 ではなく孤独にさせず家族や支援等の社会の関わりがもっと必要かつ重要であ ると確信を持っていたので、矯正医療は、当時は漠然としか矯正のことを知り 得ていませんでしたが、今の私でも少しはお役に立てそうだと認識して国や社 会のために貢献が少しでもできればと思い、法務省の矯正医官の道へ飛び込み ました。その時から、塀の中の特殊な環境の医療現場で働いて、もうすでに 12 年間が過ぎました。犯罪者の改善・更生・社会復帰という理想と現実の隔たり の大きさ、やれば知るほどに矯正医療が一般社会では経験できない国の重たく 難しい医療業務であることを実感しつつ、矯正施設の内外で多くの部署の多く の優秀な刑務官や専門官が連携・支援・協働して、成人や少年や高齢者の健康 を回復維持させ、改善更生に取り組み、社会の治安、明るい社会に向けて犯罪 や非行を防いで、被収容者の立ち直りをみんなで支えるために英知を絞り、人 知れず塀の中で黙々と働き、努力奮闘をしながら社会へ送り出している現状を 知るほどに、矯正医療は医師である誰かがやらなければならない国の重要な仕 事であると確固たる信念に変わりつつあります。

過ちを犯して、悔いて、つぐない、頑張ろうと心に誓って社会に出ていくけ れど、上手く生きていけない社会での現状に、自己の甘さや受け入れる社会と の軋轢などのいろいろな要因に翻弄されて再び施設に舞い戻ってくる。社会復 帰してもムショ帰りのレッテルを貼られて容易に生きていけない世間、今度こ そ立ち直ろうと心に決めても理解して支えてくれる人が少なく、心も折れて捻 じ曲がり社会を怨む構図、生まれながら劣悪な環境の中の生い立ち、歪んだ人 格形成、自己への極端な甘え、自己中心的な反社会的な考え方や言動、社会や 家族の受け入れの困難さ、保護、居所、孤独、仕事、金銭、病気等の福祉や医 療の受け皿の問題がすぐには解決できそうにない社会の現況、また、肢体不自 由、高齢者や認知症、薬物依存、知的あるいは発達障害、人格障害、統合失調 症や覚せい剤等の精神障害や後遺症と種々の身体や精神の問題が多々あり、自 分ひとりでは到底乗り越えられそうにない。刑期を全うして一般社会から隔絶

された高く厚い壁で囲まれた刑事施設を退所して社会に戻り、理解ある社会の 人々の支えを受けながら、彼ら彼女らの立ち直りを支える地域のみんなのチカ ラを信じて、ひとり孤独ではないことを心に刻み、人を信ずることの大切さと 自己の甘えを乗り越えて、自分の過度なわがままを抑制することを身につけさ せて罪を償い、つぐなうことは何かと向き合いながら共に生きて、あやまちの 「そのあと」を大切にしながら社会に戻したい。そして、二度と犯罪に戻らな い・戻させないための社会の支えがもっと広がり、明るい社会に向かえば良い と痛切に願う。

矯正医療が社会にもっと認知され、理解され、支援して頂くことを実現する ためには、矯正の中だけではすでに限界であり、国の施設として国民や地域住 民との共生だけではなく共に創る共創が必要である。同じ人として日本に生ま れてお互いに助け合う絆は生きているすべての人に内在していると信じたい。 彼ら彼女らの社会に対する憎しみや無知や教育を受ける機会喪失による排他的 な思い込みと自己中心的な生き方の不器用さを理解する努力をしながら、複雑 に絡んだ個々の問題を根気強くほぐして再び絡まぬように周辺環境を整えてや ること、再び過ちを起こした時には、厳しく指導しながら心の寛容さと慈悲の 心を持つように自分に言い聞かせ、時に、怒り、なだめ、褒めてやり、本来の 人の温かさを教え、一つでも自分で良いことをしてみることの大切さを教えて やる教師や先生であり、時には、親としての温かさと厳しさを持って忍耐強い 継続的な見守りが必要である。病気に苦しみ、辛い時に身体の苦痛や心の苦し みを和らげてくれる医師や看護師のありがたさを体感させて、生まれた時の無 垢な気持ちを思い出させ、人の心の温かさ、いつまでもひとり孤独ではないこ とを言い聞かせ、人と人との信頼関係を回帰復帰させることを矯正医療が可能 にしてくれると信じる。

<なんとかならないか? またか?! どうしてか? どうしようもな い・・・・>

こうしたことの日々の繰り返しにならぬように、塀に囲まれた刑事施設の中 に居ても、医師として、精神的にも身体的にも緩和され、罪を償い、更生して 社会に復帰する被収容者を数多く見たいと願うばかりである。医師として病気 に苦しむすべての人に分け隔てなく癒すことのできる医療を行いたいという願 いは、どんな場所や施設にいても同じです。塀の中でも病気の診察や治療の必 要な被収容者は、一般社会の患者と同等に変わりありません。ただ、罪を犯し て収監され自由を拘束された人が医療を求める際には、医師と患者との信頼関 係が成り立ちにくい状況がある中で、診察や治療が本当に必要なのか(真の医

療の必要性)の判断をせねばなりません。限られた医療資源の中で、いろいろ な個々のひとり勝手な思いだけにすべて応ずるわけにもいかず、また、一般社 会のインフォームドコンセント(理解と承諾)も刑事施設では難しい問題があ ります。

刑事施設に限らず矯正施設での矯正医療が、被収容者の心と体の健康を回復 させ人としての再生を実現させる忍耐強い継続的な努力を惜しまず一般社会へ の自立を支援する架け橋となることを切望したい。

こうしたことを日々、心に反芻しながら、やらなければならないことは淡々 とやる倫理的なケアリングを意識して、矯正医療の現場で、私にできることは 何かといつも自分に問いながら日々を送っています。

令和2年 3 月17日

法務省矯正局総合政策推進会議参与(矯正医療担当) 矢野健次